福永普男 高知産まれ 
 
二十歳ぐらいからの知己 どこかの美術研究所で知り合ったのかな
よく遊んだ よく飲んだ よく話した
この絵は 30歳ころに描いた絵かな アトリエの隅から出てきた 先日 彼に渡した 
 
 
 嫁はんが 春に亡くなったよ 悲しくて 悲しくて
「高野山に 一緒に行こうと話してたが 残念 オレひとりで行くから 同道してくれ」2016年6月
ヒゲは真っ白になったが あとは全部同じ 二十歳代のころと変わっていない 酒が弱くなったぐらい
持っているのは 奥さんと子供の写真
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

16-045 ヒゲさん 230616

南海電車高野線、難波発:橋本行きの電車に乗っている。10日ぐらい前、ヒゲさんから電話がかかってきた。「カミさんが亡くなった 4月に亡くなった」「えええ」いつものこと、早口に一人でしゃべっている。ヒゲさん夫妻はともにやせ型で訃報など思いもよらなかった。去年ぐらいに「夫婦二人で高野山へ行こう 宿坊に泊まろう」と楽しみにしていたらしい。ひとり身になった今「さびしくて さびしくて 毎晩泣いてる」「高野山の宿坊 おまえと一緒に行こう オレは カミさんの写真 もっていく」ということで高野山宿坊を検索してみた。調べるとなんと高野山とは一大観光地、宿坊といえども温泉宿と同じ、違うのは精進料理であることぐらいじゃないのかな。宗教の一大聖地であるとか、修行の場であるとかいう雰囲気はない。「こんなことではいけない もっと厳かに もっと密やかに 心や想いの思索の場でなければいけない 金や 威風や 華麗さ ばかりを追っていてはいけない」と嘆いている御仁もどこかの隅っこにおられるやも知れないが、高野山という街は一大観光地として大いに盛り上がっている。ネットで宿坊を検索したが、和室一人二食付きなら1万円以上の宿坊ばかり、「オレは 同道しない 翌日 高野山に迎えに行く それから 我が家に泊まってくれ」ということに決まった。

 

ケーブルが高野山駅に着いた「バスよりも 少し歩きたい」駅付近に立っていた制服の人に聞くと「こっちは人の通行はダメ 歩くならそっち 大門方面です」という。何のことやらわからないままに車道を歩いた。ヒゲさんに「二人分の弁当をもって高野山に行く」といっていたが、前の晩の天気予報では雨模様、雨の中で弁当でもあるまいとにぎりめしだけ持ってやってきたが、薄日が差してきた。まわりはガスで白っぽい、木々の緑がきれい「雨だと思っていたが 晴れていますねえ」「いえいえ 朝まではすごかった 大雨だった」道路に立っていた工事のおじさん。山の形に沿ってくねくね曲がる道、「この道は 高野山市街地向かっているのでない?大門とは?」市街地に行きたかったが、バス専用の道、南海電車の策略か、必ずバス代を払うようになっているようだ。それでも払わないやつは、大回りせよということかな。宿坊もネットで検索すると「高野山の宿泊 宿坊は高いというが 安い宿坊もあります」というサイト、十軒ほどの寺の名前が書いてある、いいサイトを見つけたと喜んで一軒一軒検索したが、二人一室朝夕食付で1万円近い、一人一室になるともう少し高くなる、格安というのは、極寒の季節、食事なしで六千円。こういうことばかりを目にすると、厳かな高野山なんておもい、百年の恋も冷めてしまう、がっかりするねえ。寺も宿坊という名で観光客を泊める旅館業を営んでいるのだね。それなら1万円なら安い方だね。大門とは街の入り口の門だった。

 

「金剛峰寺の辺りに いてくれ」と前もって連絡していた、オレは携帯電話がない、高野山の街にはお洒落で和風な電話ボックスがあったと記憶していたが、大門からしばらく歩いてもボックスがない「金剛峰寺まで500M」という標識が出てきた辺りで見つけたボックスに入った「もう前に来てるよ」「10分もかからない」5年ぶりに会った。開口一番「この街は素晴しい 気持ちがあらわれる」と嬉しそうにいう。いきなり炭の話になった。「炭焼きの貧乏ったれの息子だった 子供のころから両親と 窯のそばの小屋で 暮らしていた」彼の一家が焼いていた炭はさほど上等ではないという。「親父が病気になれば 母親や 兄弟と炭を焼いた」という。「山の一軒家にいても 一人でいても こわくない」という。炭とは、木の幹・枝などの有機物を、蒸し焼きに、不完全燃焼をさせてできた炭化物だという。日本列島では新石器時代から使われていた形跡があるという。ナラ・ブナ・カシ・クヌギ・近代では竹がいいという。「サルスベリも いい炭ができるよ」と彼がいう。

 

ヒゲさんとは二十歳ぐらいからの付きあい。今も昔も鍾馗(しょうき)さん風の髭をたくわえ、小さい身体、細い身体でひょいひょい歩く。先日も東京で「美術館のような 個展をした」というが「売り上げはゼロだった」ともいう。30歳代に5Mもあるようなぽっちゃり裸婦の粘土立像を5.6点造った。和紙の紙すきも始めた「自分の作品は自分の紙で」絵の具もピグメントを練って自作していた。彫刻の鋳造もやっていた。彼は何でも自分でやりたいという人なのだ。「カミさんがいたから やってこれた オレと子供に 金を残してくれた」「売れなかったが 作品群の 財産価値は高い 一億円 いや 二億円・・」「もう会うのは 今回が最後かもしれないねえ」と駅で別れた。